2011-11-14(月) [長年日記]
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心を整える。 勝利をたぐり寄せるための56の習慣(長谷部誠)
やっと読んだ。ベストセラーなのであんまり書くこともないかな。
長谷部は見るからに「委員長タイプ」で、スポーツチームの、それも「サッカー日本代表のキャプテン」と「委員長」の取り合わせというのはちょっと不釣合いで面白いなぁと以前から感じてはいたんだよね。ようするに、スポーツチームのキャプテンは脳筋タイプであるというステレオタイプに毒されているわけだけど、おれが。少年マンガの弊害だ。
本書はそんな「委員長」長谷部誠が、委員長なりに懸命に頭を使い、それはそれは細かいところまで考えぬいて、ひとつひとつを実行しながらキャプテンとしてチームをまとめ上げる話である。なんでも理詰めで考えちゃう人にはかなり共感できるかも。しかも彼は、そんな自分の「法則」が過去の自分をも律してきたということを遡って考察しているのだ。
もっとも、最後の「実行する」ところまで徹底できる人は決して多くないので、そこが彼を常人と隔てている部分なのだけど。本書に書かれている「56の習慣」を本当にすべて意識的に実行しているとしたら、やっぱ日本代表はスーパーマンの一種だよなぁ。
ちなみに本書は紀伊國屋書店からXMDFファイル形式の電子書籍として購入したが、最近、XMDFファイルのダウンロードができなくなるという最悪のリニューアルをしてくれやがったので、あそこではもう二度と買わない。紙で買って自炊する方がマシ。
2011-11-12(土) [長年日記]
■ 実はいま、マフラーを編んでいる
今日、Facebook某所でなぜか編み物の話題が出て、「うわ、なんかおれ、監視されてる!?」とか思っちゃったのだが、そう、実は先週から編み物を始めている。
かみさんが「手作りマフラーを東北に - Scarves for Japan」というサイトを見つけてきたのが事の起こり。たんなる学生の思いつきかと思いきや、ちゃんと活動実績はあるし、収支報告もしているし、じゃあいっちょ乗ってみようということで夫婦で毛糸と編み棒(とハウツー本)を買ってきた。ずぶの素人がいまから始めて東北の冬に間に合うのかよというツッコミはありだけど、まぁそういうのは抜きにして、やる方が楽しんで、ついでに被災地支援になる(かも知れない)のであれば、それはそれでいいのだよ。ちなみに小学生か中学生のころ、おふくろが編み物をしている横で見よう見まねでかぎ針を扱ったことがあるので、まったくの初心者というわけではない。
先週の日曜からとりかかって、まずは慣れるために数段編んでペースをつかみ、いったんほどいて編み直し。そのあとは毎晩、寝る前の1時間くらいを毎日編み物にあてている。最近夜間にネットに出没していないのはそのせいだったりして。
だんだんスピードもあがってきて、リズムが出てくると目が揃ってなんだか上手に見えなくもない感じ。今日はあまりやることもなかったので、ほぼ一日編み続けて、やっと一玉編み上げた。あと二玉くらい編む予定。上手い人はこれくらい1日で完成させてしまうらしいので、まだまだ遅い。おまけにフチが汚いところが素人仕事丸出しで、いきなり最初の(下手くそな)作品を送りつけても失礼だから、これはまず自分用にするつもり*1。
編み物には基本的に表編みと裏編みの2種類しかなくて、ようするに「0」と「1」からなるバイナリの世界だ。だから「設計図」もビットマップと言っていい。編み物はその上を編み針でなぞっていく行為なわけで、これはね、自分がチューリングマシンのヘッドになった気分ですよ(笑)。いまやってるのは単純な一目ゴム編みなので、いわば「Hello world.」レベルのプログラムだけど(だたし言語はマシン語)、これが高度になってくると本当にプログラムと編み物の境目はなくなってくるかも知れない。と、無理やりソフトウェアネタにつなげてみる*2。
題材は矩形のマフラーだから目が増えたり減ったりしないし、一目ゴム編みは表と裏の単純な繰り返しなので、慣れるとあまり頭を使わなくても進められる。こうして一日のおわりに一定時間、黙々と単純作業をするというのは、けっこう悪くない。なんとなく寝入りがいいし。少なくともPCの前に座って情報の洪水を浴びてからすぐに寝るよりは、精神的にもいい気がする。これは予想外の効用。
↓今回の教科書:
2011-11-10(木) [長年日記]
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時間はだれも待ってくれない(高野 史緒)
「こんど外れたら利用をやめよう」と思って申し込むとなぜか当たる、そんな本が好き!の献本で読んだ。老後のために未読のスタニスワフ・レム作品を何冊か溜め込んでいる程度にはロシア・東欧SF好きなので(←つまりどの程度好きなのかよくわからない)、嬉しいね。
当初の興味は作品そのものというよりは、ロシア・東欧SFにおける深見弾の影響力が、彼の亡き後どれくらい弱まっているのか、つまり東欧のSFに漂う「異質さ」が深見弾訳のせいなのかそうでないのかを確かめたかった。あのテイストは深見訳に依存していたのではないかという疑惑が個人的にはあったのだ。
だが、編者による前書きで、そもそもチェルノブイリ事故やベルリンの壁が崩壊した「ソ連後」の東欧の変化はそれどころの話ではないという指摘があり、そりゃそうだと居ずまいを正した。つまり新しい東欧SFが読めるということだな!
で、読み終えてみてどうだったかというと、ぜんぜん変わってねぇ(笑)。いや、もちろんほぼ2000年以降の作品ということで題材も時代背景も違っているのだけど、あの妙な味わいというか、なんちゅーか「舌触り」みたいなものはあいかわらずなんだよ。やっぱ翻訳者に関係なく独特な文化を持つ地域なんだなぁ。
特に結末のつけ方が投げっぱなしというか、「えっ、そこで終わるの?」という作品が多い。「ここできちっと締めて読者を満足させよう」みたいなお決まりのサービス精神が皆無で(良く言えば自由)、ああ、自分はアメリカSFに毒されてたんだなぁとしみじみ感じる。だからといって面白くないわけではなくて、スカっとしないぶん逆に後を引く読後感がある。
社会主義が勝利した平行世界とインターネットでつながる「労働者階級の手にあるインターネット」、第二次大戦当時の街並みが一日だけ復活する表題作「時間はだれも待ってくれない」が時代と地域性をより感じさせてくれて、個人的には好みだった。SFというよりも幻想文学と呼ぶべき作品がほとんどながら、いわゆる「ファンタジー」とはずいぶん違ったジャンルの作品ばかりだった。まぁ、収録する国の多様性を確保するためにちょっとムリのあるチョイスも混じってはいるんだけど。
◆ ブチャ猫 [昔は子どもたちのセーター類を編んでましたから 編み目を見るとワクワクします。 たださんのマフラーの編み目、綺麗だし、..]
◆ ただただし [輪針はやってみたいですねぇ。レッグウォーマーじゃなくてネックウォーマーを編みたい。]