ただのにっき
2016-09-23(金) [長年日記]
■ 映画「聲の形」を観てきた(そしてものすごく疲れた)
「シン・ゴジラ」を超える大ヒット中の「君の名は。」は、かみさんが先にひとりで観に行って(予想通り)相当がっかりして帰ってきたから観ないことに決めたんだけど*1、「聲の形」はなんとなく観に行こうと思っていた。自分の中に新海誠に対する信頼はないけど、京都アニメーションに対する信頼感は醸成済みというのがわかって面白い。京アニ作品なんて「響け!ユーフォニアム」くらいしか観てないのに(笑)*2。
基本的に前知識ゼロで観ようと思っていたのに、公開時に字幕上映がないことに批判が巻き起こって、よけいなノイズが入ってしまった*3。映画を観てもいないのに「いじめられっ子がいじめっ子を好きになるなんてありえない」と断定する輩とかさ。まぁ、ストックホルム症候群でもないかぎり、たしかに和解はありえても恋愛はありえんよなぁ、とは思うよ、いじめ体験者としては。
(以下いつものようにネタバレは気にせず書く)
実際は「いじめっ子 vs いじめられっ子」なんて単純な図式ではない、巧妙な設定とシナリオによって、そんな杞憂は軽く吹っ飛んだわけだが。というかですね、始めっから最後まで、ずーーーーっと極度の緊張感が続く──なんというか、地上100mに張られたロープの上を歩かされているような──、それもハラハラドキドキのジェットコースタームービーとは違う、真綿で首どころか心臓を絞めつけ続けられるような緊張で、面白かったけどすっごい疲れた。なかなか得難い映画体験だったが、とにかく疲労困憊。ふー。もういっぺん観たいかと聞かれたら「一週間、いや一ヶ月くらいは勘弁してくれ」と答えるレベル。
聾者であるヒロインの西宮の存在が「聖人すぎる」という批判をみかけたけど、とんでもない、すごい闇を抱えた子なんである。妹が、姉の自殺を思いとどまらせるために動物の死骸の写真を家の壁に貼りまくるくらいに極度な自己否定。それでもなんとか生きながらえてたが、最愛にして最大の理解者である祖母の死をきっかけに自殺願望がふたたび芽生え、唯一の心残りであった母と石田の和解をとりもって、思い残すところがなくなってしまう。
これが冒頭の主人公・石田の自殺準備ときれいに重なる。彼もやはり(いじめをきっかけに)自己否定が強まり、母への借りを清算することで現世との関わりを断とうとしていたわけで、けっきょく、同じ強い自己否定を抱えた少年少女が、互いに相手を必要な存在とするために歩み寄るというのがこの映画の主要なプロットなのだ。なんとまぁ、「いじめ」も「聴覚障害」もそのための「置き換え可能なツール」にすぎないじゃないか。これ、観る者が持っているバイアスを試す、かなりいじわるで意図的なミスリードだよなぁ。
このミスリードに気づいてからは、ひとりで「悪役」を背負い込んでいる植野の存在ががぜん気になり始める。小学校時代から変わらぬいじめっ子ポジションを振る舞い続ける彼女の「闇」がどこにあるのか、おそらく原作では深掘りされているのだろう。原作も読むべきかなぁ。まぁルックスだけなら川井が最強にかわいいんだけど(なんたってメガネにおさげである)、噂によると原作でいちばんヤバいのは彼女らしいので、夢を壊さないためにも原作は読まない方がいいかも知れん。
そうそう、実は、結末は気に食わない。映画的なカタルシスを得るためには最善かも知れないが、あのタイミングで石田「だけ」に救済が訪れてしまうのはやはり忍びない。彼はもうしばらく、周囲のごく一部の人たちの顔だけが見える状況が続くほうが良いように思う。個人的には、最後まで石田への恋心を隠し通した植野が、西宮を罵倒するためだけに手話を覚えてくるところに最高にキュンキュンしたので、あれがラストシーンでもいいんだけどなぁ(笑)。