ただのにっき
2004-11-22(月) [長年日記]
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夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)(こうの 史代)
この半月というもの、肌身離さずに持ち歩き、ことあるごとに読み返している。値段の10倍の価値があると書いたのは偽らざるところで、本音は100倍と書きたいところである。とは言え、未読の人に対しては「いいから読め!」としか言いようがない。けっきょくこの本に言及する時には、すでに読んだ人に対しての物言いにしかならないのだ。ようするにネタバレを避けた書評なんて書けやしないのである。まぁ、それでもよかろう。
『はだしのゲン』とか「平和記念資料館」みたいな従来型の"原爆表現"は、誤解を恐れずに言えば「豪快な投げ技」のようなものだ。スパっと決まって一瞬で勝負がつく。投げられた方は何が起きたのかよくわからないが、とにかく投げられたことはわかる。
以前、広島を訪問したとき、修学旅行の中高生を見ていて、投げられたあとの行動に3種類あることに気づいていた。
- 投げられた衝撃に目覚め、その理由を深く考え込むタイプ
- ショックがあまりに大きく、投げられたこと自体を忘れようとするタイプ
- 投げられたことにすら気づかないタイプ
タイプ1こそ、この原爆表現が期待した反応だろう。こういう人たちがヒロシマ・ナガサキを中心とした平和運動の核を担っていくに違いない。そういう意味で、必要な表現だ。が、世の中そんなに強い人間ばかりではない。おれも『はだしのゲン』とか読んでるはずなんだけど、なんだか気味が悪かった印象だけ残っていて、ショックも一過性だった。(タイプ3のような極めつけの鈍感は論外としても)そんなタイプ2はなんとか救いたい。おそらくタイプ2は、割合からいっても最大になるはずだからである。
本書『夕凪の街 桜の国』は、いわば"高度な寝技"とでも呼ぶべき、新しい原爆表現である。
寝技をかけられている間は、ともかく30秒、もがき続けなければならない(関節技を除く)。そんな、「じんわり効いてくる技」の威力が、本書にはある。原爆表現につきものだった気味の悪さは控えめで、被爆者が体験の共有を求めてくるような強烈なメッセージ性もないので、気の弱い人でも再読に耐える。さらに複雑な構成(読書ノート参照)が、なんど読んでも新しい発見を呼び起こしてくれるため、純粋に読書体験として楽しいのだ。そして再読を重ねるうちに、読者は作者の主題を徐々に理解していく。
本書には、三組のカップルが登場する。
- 皆実と打越は、皆実(被爆者自身)によるトラウマが
- 旭と京花は、旭の母フジミ(被爆者の家族)による反対が
- 凪生と東子は、東子の両親(広島に行ったこともない)による反対が
それぞれの行く手を阻み、それぞれが決意をもって乗り越えていく。時代が経るにつれ、障害の発生するポイントが移ってきていることを作者は表現している。"投げ技"系の原爆表現が、皆実の立場を訴えることを主眼としてきたのに対し、"寝技"はこの時間経過を的確に表現している(言うまでもなく、われわれが住んでいるのは凪生と東子の世界である)。
時間の経過表現と言えば、他にもある。『桜の国(一)』では、旭やフジミは顔を見せない(仏壇の中にいるはずの京花すらも)。登場するのは被爆者の血を直接ひいた二世だけである。一方『夕凪の街』では被爆者本人しか登場せず、被爆を免れた旭はシルエットと声しか登場しない。それぞれの作品が担っている「時間」を明確に表している。
では旭が始めて顔を見せる『桜の国(二)』はどういう位置づけか。旭が(二世代表の)七波を引き連れて巡る広島では、(一世代表の)皆実に関係した人々が次々と現れ、ここで旭は一世と二世の橋渡しの役割を果たしているとわかる。もちろん皆実と七波は、その名前からして同一人格として存在しているのだから、旭の行動は両者を時間の連続性の上で結びつける。
旭の最後のセリフ、「おまえが幸せになんなきゃ、姉ちゃんが泣くよ」は、現代に生きるわれわれが、過去であるヒロシマ・ナガサキに生きた人々に対して、どう向かい合うべきかという問いに対する、作者なりの答えなのだろう。ここには、従来"投げ技"系表現が求めてきた「被爆体験の共有」はない(そんなことは無理だ!)。しかし、ヒロシマ・ナガサキとつながりを保ちながら、しっかりと未来を向こうというメッセージがある。
「街」から「国」への、作品タイトルの変化も重要だ。従来われわれは、ヒロシマを振り返るとき、そこが極めて特殊な「街」であったことを意識せざるをえなかった。しかし本書によって、ヒロシマにも普通に人々が生きていた、同じ「国」の一部であった事実に気づかされる。
ヒロシマを嫌いになりかけていたこの国に住むタイプ2の人たちに、ヒロシマを好きになる方法を伝える(いみじくも帰りの車中で東子が言ったように)……従来の原爆表現がなしえなかった、そんな計り知れない価値が、本書にはあるのである。読むべし。